東大話法(とうだいわほう)とは東京大学(東大)の学生・教員・卒業生たちが往々にして使うとされる「欺瞞的で傍観者的」な話法のこと。東大教授の安冨歩が著書『原発危機と「東大話法」』(2012年1月出版)で提唱した。
東大話法規則一覧 [編集]
1.自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
2.自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
3.都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
4.都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
5.どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
6.自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
7.その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
9.「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
10.スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
11.相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
12.自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
13.自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
14.羊頭狗肉。
15.わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
16.わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
17.ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
18.ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
19.全体のバランスを常に考えて発言せよ。
20.「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
使用例 [編集]
「『信頼に値する仕事をする人』は『個性的な顔」をしていて『笑顔がかわいい』」[5]。
「もしもあなたが本当に、お読みになっておられた【のだとしたら】、おわびします。」[6]。
批判 [編集]
『日刊サイゾー』は東大出身である松本准平の「不安を抱えて何かに依存するしかない現在の人間の姿として“東大話法”のようなレッテルを貼っての批判は一定程度、評価できる」「東大話法なんて誰だってどこかで使ったことがあるのではないか」との言葉を紹介し、御用学者に共通する部分がある可能性は認めた上で、提唱者も東大教授であることや、東大話法批判にも東大話法的な面があることや原発に批判的な広瀬隆の過去の発言を例示して東大話法を批判した[7]。それに対して安富はサイゾー記事の「ロジック」を分析し、再反論を行っている[8]。
『原発危機と東大話法』で安富から批判された池田信夫は自身のブログにて「東大に勤務する彼が、しがない私立大学に勤務している私に「東大」というレッテルを貼るのも奇妙」「「お前の言い方が悪い」という日本人に特有の話は非生産的[9]、「私は「原子力を推進する」などと一度も書いたことはない[10]」「彼のいう「東大話法」なるものは、自分と意見の違う人に「原子力を推進する人」などと嘘のレッテルを貼る党派的レトリックに過ぎない[10]」などと反論を行っている。
2012年5月8日に東京大学先端科学技術研究センター教授の玉井克哉は「東大をタイトルに謳っているのに、中身は東大とは何も関係ないことばかり[11]」「全体として支離滅裂[12]」「東大話法規則第一である「自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」は世上マーケティングに従事している人の多くが、東大話法を駆使していることになりそう[13]」「他の話法の定義も、あいまい不明確[14]」「気に入らないものを見つけたら東大話法と名付け、罵言を浴びせるだけ[15]」として「読んだら損する。紙屑[16]」とコメントしている。
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先日、ライターとして少しだけ手伝わせてもらった本が出版された。『もう「東大話法」にはだまされない 「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く』(講談社α新書)
著者は、東京大学東洋文化研究所の安冨歩教授。そう聞くと、何やら東大教授による東大出身者に対する批判本のような印象を受けるかもしれないが、そうではない。
実は、この本で扱っている「東大話法3 件」というのは、オフィスや恋愛関係などで、ごくフツーにつかわれる“責任逃れの話法”をテーマにしている。傍観者という立場で公平を装いながら、ややこしく、そして権威たっぷりに自分が正しいと語ることで、どんなウソでも相手に納得させてしまう――。みなさんの周りにも、そのように口が達者な上司や同僚がひとりやふたりはいるのではないだろうか。アレだ。
もともとこの言葉は、福島第一原発事故の時にあらわれた政府関係者、東電関係者、そして原子力の専門家たちがそろいもそろって、奇妙な言い回しで責任逃れをしていることに安冨教授が気づき、研究していたところ灯台下暗しではないが、自分の周りにも大勢いるじゃないかということで「東大話法3 件」と名付けた。その理由は、「たしかに話法そものは一般的ですが、東大関係者が操るそれは、他と比べてずば抜けてうまいから」(本書より)だという。
そう言ってもなかなかピンとこない方もいると思うので、本のなかで紹介されている例をひとつご紹介しよう。
本音を隠す欺瞞的話法
出席者のなかでこの会議はバカバカしいと打ち切ろうとする人がいると、必ずこのような欺瞞を覆い隠すための「東大話法」を展開する人がいます。
「たしかにそのような議論もあるかと思いますが、私としてはまだまだ議論が足りないと思っています」
この「議論が足りない」という言葉は、政治家が好んでよく使い、なるべく決めたくないことを「議論が足りない」とか「そこまで議論が煮詰まっていない」などと言い訳をして、のらりくらりとやっているうちに塩漬けにしてしますのです。会議とはそもそも、何かしらの結論を出すという目的で議論をおこなうはずなのですが、いつの間にか議論そのものが目的にすり替えられているのです。(本文128ページより)
分かる分かる、という声が聞こえてきそうだが、日本企業の特徴のひとつである“会議のための会議”をムダだと思っているビジネスパーソンは多い。この「議論が足りない」というのは非常に使い勝手がいい。安冨教授が指摘をするように、問題を先送りするほか、議論を“誘導”することもできる。
まだ新米記者の頃、さる政治家にインタビューをした。ある法案について考えを探ろうと、あれやこれやと質問を変えてみたものの、そのセンセイはまるでオウムのようにこう繰り返した。
「その件に関してはまだまだ議論が足りないと思っています」――。
なんだかなあと思って、ふとその法案について「個人的にはこう思いますがね」的な主張を一席ぶってみた。すると、そのセンセイ、私の「立場」が分かってホッとしたのかいきなりベラベラと持論を述べ始めた。
要するに、彼の「議論が足りない」というのは、「オレが導きたい結論じゃないんだよね」という本音を隠す欺瞞的話法だったというわけだ。
「東大話法」を使っているのは霞ヶ関の高級官僚
少し話はそれるが、『12人の優しい日本人』という映画がある。これは米国の映画『十二人の怒れる男』を元ネタにしたもので、「もし日本にも陪審員制度があったら?」という架空の設定でストーリーが進んでいく。
ある殺人事件で集められた陪審員の心理的かけ引きが描かれていて、その中に「もっと議論をしましょうよ」という男が現れる。彼は一見、理性的で公平のようだが、実は単に有罪へと“誘導”をしたいという狙いがあったことが、終盤で明かされる。この“偏向陪審員”と、大手メディアがカブって見えてしょうがない。
日本で最も洗練された「東大話法」の使い手は霞ヶ関の高級官僚だ。彼らが「東大話法」を駆使してつくったペーパーでせっせと記事をつくり、「東大話法」によってリークされたものを「スクープ」とありがたがるのが大手メディアだ。「ホニャララ新聞は入試にも出るからやっぱり信用できるよな」なんていうマジメな人に限って、霞ヶ関官僚の受け売りみたいな欺瞞をふれまわるようになるのは、こういう構造的な問題があるからだ。
原発事故から1年以上が経過して、誰が悪かったのか、何が問題だったのか、「東大話法」で見事にウヤムヤにされたことからも分かるように、霞ヶ関には自浄作用がない。そこに連なるメディアも然り。となると、もはや自分の身は自分で守るしかない。
「権威」と呼ばれる人たちが、どんなタイミングでウソをつき、どんなテクニックで問題の本質から目を逸らさせようとするのか。この本には、そんな彼らの“尻尾”が実例をまじえて紹介されている。
ビジネスシーンはもちろん、世に溢れる欺瞞を見抜く「ガイドブック」のようなものだけに、安冨教授にはぜひ高校生以下のジュニア用の本も書いてもらいたい。