茶の湯はカトリックのミサ
-千利休が大成した茶の湯はカトリックのミサ(聖餐)の儀式である-
田中進二郎筆
千宗易(利休 1522-1591)は、当時自治都市だった堺の会合衆 (えごうしゅう 堺の中心的な豪商)の一人だが、イエズス会と深く関わっていた。
宗易(以後 利休と記す)は、村田珠光(1423-1502)、武野紹鷗(たけのじょうおう 1502-1555)が開いた茶の湯、佗び茶を大成した、ということでつとに有名である。利休死後も、子孫が表千家、裏千家、武者小路千家と分かれて、代々大名家の茶頭として出仕して利休の茶の湯の精神を引き継いだ、とされてきた。千利休が大成した茶道こそは日本文化の精華、精髄と考えられている。
しかし、利休の茶道が彼とその弟子(利休七哲と呼ばれる大名たち)は、カトリックの儀式を茶道という形に変形して、洗礼を施していたのだ、ということがザワザワと言われ始めている。
茶室はカトリック教会の活動の拠点であった。このことは、千宗室(利休のひ孫)に始まる裏千家や武者小路千家に、密かに伝えられていた。当時畿内のキリスト教会で行われた洗礼ミサの儀式を取り入れたものだ、それを確証する史料が、ローマ・バチカンの図書館に残っているという。
(引用元ー武者小路千家14代目家元 ・千宗守 ラジオ番組の録音
http://manga.world.coocan.jp/sadou-iemoto-musyakouji.html)
利休の茶道は、カトリック教会のミサの聖体拝領の儀式を取り入れて、吸い茶(茶の回し飲み)を始めた。
茶室に集った人々との連帯感を高めるための通過儀礼のようなものだった。利休はイエズス会の宣教師におうかがいをたてて、バチカン教会の許可をとったことが、記録として残されている、というのである。
ところでそもそもカトリックのミサの儀式とはなんなのか?
Wikipediaには以下のように説明されている。以下引用する。
(引用開始)
ことばの典礼が終わると、パン(「ホスチア」と呼ばれる、小麦粉を薄く焼いた食べ物。これが聖体になる)とぶどう酒、そして水が祭壇へ準備される(これを奉納という)。ここから始まる「感謝の典礼」はキリストの最後の晩餐に由来するものとされ、ミサの中心的部分である。次に司祭によって「奉納祈願」と「叙唱」という祈りが唱えられ、会衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「感謝の賛歌」(サンクトゥス)が唱えられる。
次に司祭によって「奉献文」が唱えられ、この中で聖変化が行われる。ここでは司祭がパン(ホスチア)とぶどう酒を取って、キリストが最後の晩餐で唱えた言葉を繰り返す。これによってパンとぶどう酒がキリストの体(聖体)と血(御血(おんち))に変わる、というのが伝統的なカトリック教会の教義である。神学用語では「実体変化(全実体変化)」(羅: transsubstantiatio)といわれ、これについては歴史上多くの議論が行われてきた。
(中略)
奉献文に続いて、福音書の中でキリストが弟子たちに教えたとされる「主の祈り」が唱えられる。そして司祭の祈願に続いて「平和の挨拶」という司祭や会衆同士のあいさつが行われる。さらに「平和の賛歌」(アニュス・デイ)が続き、司祭はパン(聖体)を裂いて一部をぶどう酒(御血)に浸す。司祭が聖体を食べ、御血を飲む。これを「聖体拝領」という。司祭(または助祭)は続いて聖体を信者に配り、信者も聖体拝領を行う。通常はパン(聖体)のみだが、場合によっては信者もぶどう酒(御血)を飲むこともある。聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの儀がおわる。この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖体を受けて交わるという意味である。
(引用終わり 太字は筆者)
⬆この儀式を利休が模倣した!
(といっても、パンとワインに何の意味があるのか、よく分かりませんが。)
利休の茶道は、台子茶(だいすちゃ)とも呼ばれる。茶釜などの茶道具一式を置く棚のことだが、本当は「台子茶=デウス茶」である。これはこじつけでもなんでもない。隠れキリシタンは全て、同じキリシタン同士だけに分かるように、このような隠語を用いてきたのだ。
イエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』には次のようにある。
〈茶室は清潔なので、人々に地上の安らぎを与える。キリシタンたちも異教徒たちもその場を大いに尊重しているのである。司祭(ガスパル・ヴィレラ)は、そこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちはそこに集まった。〉
キリスト教ではミサを「点(た)てる」という。ここから茶を点てるという使われ方が生まれ、「お点前」という呼び名になったようだ。
利休の茶道は、今でも大阪のカトリック教会のミサで用いられている!以下の記事の写真が決定的な証拠である。↓
http://blog.livedoor.jp/taktag55/archives/62728707.html?fbclid=IwAR0s4XjJSkU0B8tsf3BGPhgSzp8MxGE9UUUAfNrRVOkdpTUvRYBQ20EUc80
利休とイエズス会の関係は想像以上に早くに始まっている。
1549年にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、鹿児島ー山口を経て
堺に上陸。そして、会合衆の一人で豪商の日比屋了瓊(ひびや・りょうけい)の屋敷に入り、そこで茶会にも参加している。イエズス会の日本宣教の最初の段階から、茶の湯(茶室)と教会はワンセットだったのだ。この時、千利休(田中与四郎)は27歳だ。実はこのとき、利休はザビエルは顔を合わせていたのではないか。
やがてザビエルは、日比屋了瓊(洗礼名・ディオゴ)と小西隆佐(洗礼名・ジョーチン 生年不明-1592 キリシタン大名 の小西行長の父)というふたりのキリシタン豪商を連れて、京都に入ることになる(1551年)。
利休は武野紹鷗からは茶の湯を学び、堺の南宗寺で臨済宗の禅を古渓宗陳(こけい そうちん1532-1597)から学んだ、と言われる。しかし、臨済宗の禅僧というのは、最初からイエズス会と結託していた。それ以前、室町時代の頃から禅僧は明との貿易で、文書の翻訳をしていた。漢文がスラスラと読めて、書くことができた。だから、五山文学と総称される禅宗の僧たちは、実は、お経よりも儒教の書物を読んでいた。東アジアの交易に、ポルトガル商人とイエズス会が乗り出して来ると、イエズス会は翻訳官としての日本の禅僧に着目して、接近した。ここから日本の情報を仕入れていただろう。禅僧たちも時代の変化を察知して、堺、博多そして京都にやってくる宣教師たちと結託し、貿易の利益にあずかろうとした。
禅僧というのは、座禅の修行に打ち込んでいるように一般的には思われているが、本当は現世での利益しか信じていない裏の姿がある。カトリック教徒と仏教の禅僧というのは根底的に同じ生き物なのである。禅僧は節操もなくキリスト教(カトリック)になったり、朱子学者になったり平気でする生き物なのである。
以下、副島隆彦の『時代を見通す力』(PHP研究所刊 P182)より引用する。
(引用開始)
朱子学は足利時代(戦国時代含む)の僧侶(五山文学)たちが研究していた。藤原惺窩(ふじわら・せいか)とその弟子の林羅山の二人が独立して、儒学者となった。
儒者もはじめはお坊様だったようだ。仏教と儒学がずっと何百年もおかしな関係になっていた。お坊様のくせに12世紀ぐらいから、中国伝来の儒教(朱子学)の本ばかり読んでいたようだ。(中略)
仏僧のくせに、当時の中国で流行していたのだろう儒教の本を一生懸命に読んでいた。坊主階級以外には漢籍(中国文)が読める人々などいなかったろう。(中略)
林羅山は江戸に来るときには、髪を剃って頭を丸めたという。徳川家だけでなく武家には「お茶坊主」として仕えなければならなかった。この事実を伊藤仁斎たちほかの儒学者たちから、笑われて悪口を言われている。
(引用終わり)
このように日本という世界の周縁に位置する属国国家群(トリビュート ステイト)はその時々の世界帝国の政治と文化を輸入して、大きく自分をシフトさせて、受容していく。仏教徒が儒学者になったり、禅僧が裏でキリシタンになる。こうしたことは世界史を大きく俯瞰(ふかん)してみれば、ごく自然なことなのだ。
現代の日本も衰退する覇権国家(ヘジェモニック・ステイト)のアメリカと、新たな覇権国家、超大国である中国の間で引き裂かれ、右往左往しているではないか。それと同じことが、戦国日本にも起こっていた、と置き換えて考えてみてください。
当時の大名や、豪商、僧侶たち支配階級は、日本と 中華文明(唐 から)とその先に南蛮文明
がある、と三つに分かれて世界がある、と把握しはじめていた。天竺(てんじく インド)はどうも南蛮人に支配されたらしい、とうすうす気づきはじめた。そして、この南蛮文明を大いに摂取しようと熱狂した。
反対に、イエズス会も日本という極東の島国に非常に興味を持った。これは、14世紀の貿易商人・マルコ・ポーロ()が『東方見聞録』で日本を「黄金の国ジパング」と紹介したおかげだ。フランシスコ・ザビエルもはかばかしくゆかないインド宣教、東南アジアのモルッカ諸島の宣教ーそこは首切り族の原住民が密林で暮らしているところだったーにうんざりしていたところに、アンジローという日本人とマラッカで出会って、自分たちのキリスト教文明にないものを発見して、狂喜した。インド宣教よりも日本にどうしても行きたくなった。アンジローをマラッカからゴアに連れて行き、聖パウロ学院で、イエズス会の教育をそこで施したのである。
こうした事態は幕末の日本でもやっぱり起こっている。アヘン戦争(1840-42)で清王朝がイギリスの艦隊にボロボロに敗れて、西洋列強の植民地になり始めた。清朝の優れた官僚だった魏源(ぎげん )が、林則徐と共に西洋情報を収集して、『海国図志』を著した。
この書籍が長崎に輸入されると、知識人たちは先を争って貪り読んだ。儒学者と蘭学者が協力して一生懸命に、日本語に翻刻した。吉田松陰や横井小楠、川路聖謨(かわじ としあきら)たちが大きくこの書物によって目を見開いて、開国の必要性を認識することになる。この熱狂が新しい時代を作るのだ。
加治将一氏は近年、『第6天魔王信長ー消されたキリシタン王国』(水王舎2018年刊)という本と、『軍師・千利休-秀吉暗殺計画とキリシタン大名』(2020年 祥伝社刊)という本を出している。特に、『軍師・千利休』はこれまでの茶人文人の千利休像を一新する重要な長編の歴史評論である。
利休は禅の師匠である古渓宗陳こけい そうちん)の傍らにいて、上陸する南蛮人たちとの接待をやっていたようだ。堺の南宗寺が、京都にある臨済宗の名刹(めいさつ)・大徳寺の貿易事務所だった。利休は南宗寺が創建された1557年の当初からいた、と加治将一は指摘している。「南宗」というのは南蛮の教え、つまりキリスト教のことだ。「南蛮寺」というのと、意味は変わらない。キリスト教会もまとめて「寺」と呼ばれていた時代だ。利休は「南坊」(なんぼう)と号した。これも南蛮の教えを信じる茶坊主、という意味の通称だ。利休の著した茶道指南書も『南方録』である。だから「なんぼうろく」と読む方が正しい。利休の一番弟子のキリシタン大名の高山右近も、「南坊」と名乗っている。
禅と茶の湯とキリスト教が、利休とその弟子たちの脳の中で一体化していた。利休の茶の湯の師であった村田珠光の「禅茶一如』に、デウス信仰のミサのための儀式作法が加えられて、利休の茶道が完成したのだ。
イエズス会の初代総長イグナティウス・ロヨラは、『霊操』という書物を著して(1530年頃正確には不明)、礼拝することでイエス・キリストを眼前にみえるように修行する方法を説いた。
この精神統一の方法が禅と非常に類似している、と上智大学教授でイエズス会の司祭だった門脇佳吉(1926-2017)も指摘している。ザビエルは1534年のイエズス会の結成に立ち会った最初期からのメンバーである。日本の布教活動の間も、ロヨラの『霊操』をずっと持っていた。堺や京都で禅僧の修行スタイルを見て、イエズス会の方法と共通のものを感じ取ったはずだ。
だからやはり、南宗寺には禅寺の建物以外に、貿易事務所と、洗礼ミサを行う教会と茶室があったのだろう。当時堺を支配下においていたのは、戦国大名の三好長慶(1522-1564)である。堺だけでなく、京都も事実上支配していた。彼が南宗寺を建てる際のパトロンだった。つまり三好長慶はもっとも早い時期に現れたキリシタン大名だったのである。
加治将一氏は、千利休の最初の妻お稲は、この三好長慶の妹だった、と考証している。利休の最初の後ろ立ては三好長慶だった。
だから、この南宗寺に三好長慶の一族の墓と千利休の一族の墓がどちらも残っている。
余談だが、この堺の南宗寺には徳川家康の墓も存在している。大坂夏の陣(1615年)で家康が死んだ、とする説の根拠の一つになっている。徳川将軍三代目・家光もここに詣でており、全く荒唐無稽とは思われない。
利休の茶道の特長は、早朝に茶の湯を行うことにあるが、これは人目を避けてキリシタンのミサを行うために、利休が考案したものだという。つまり朝のミサであり、これは1559年に始められていた。南宗寺が創建されてから2年後のことである。1573年にローマ・カトリック教会が、利休の朝ミサを正式に承認している。
〈携帯祭壇(茶室)を使って行うミサは、聖別された教会以外でも、ーただし品位ある適切な場所でー夜明け1時間前に点(た)て、また必要であれば午後でも点てることができる〉
-1573年9月8日 グレゴリウス13世勅許ー
これはローマ法王がカトリック・キリスト教の日本布教のためには、茶道を利用することが有効だと認めた、ということなのである。このときから、茶道が本格的に隠れキリシタン(大名)の礼拝の儀式となった。
その儀式を取り仕切る総責任者が千利休だったのだ。