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田中文科相たたきの背後に米国の影

田中文科相たたきの背後に米国の影

2012年 11月 10日 20:38
【コラム】 <外交> <政治・政党> <教育>
http://www.janjanblog.com/archives/84558
高橋清隆

 3大学の新たな設置を認めない意向を示していた田中真紀子文部科学相がマスコミによる激しいバッシングに折れて8日、正式に撤回した。マスメディアは支配権力の宣伝道具(プロパガンダツール)だから、国民のためにならない報道をするのは実に正常なこと。別段、目くじらを立てることもない。

 しかし、ネットメディア上でも「バカ大学が増えるだけ」のたぐいの反論しか見当たらないので、書いておくことにする。視聴者に気付いてほしいのは、過剰な報道の背後にちらつく外圧の存在である。

小泉政権で進んだ大学認可の緩和

 4年制大学の数は20年前の1992年の523校から、今年の783校に増えた。ただし、制度の変更は緩和一辺倒ではない。92年度以降は18歳人口の減少を踏まえ、「大学等の新増設及び定員増については原則抑制」の方針を採用している。2000年度以降も教育の質の確保を図る観点から、看護や情報、福祉など社会的必要性の高い分野を除き、基本的には抑制的に対応する計画だった。

 方針が逆転したのは、小泉政権のとき。首相に就任した01年暮れの総合規制改革会議で、大学・学部設置認可に対する抑制方針の見直しや届け出制の導入などを答申している。翌年の中央教育審議会もこれを踏襲した。

 その結果、03年度には学部や研究科で学位の種類・分野が変わらないものについては届け出制に変更。校地の基準面積や自己所有要件などを緩和するとともに、構造改革特区では株式会社の参入を認め、空き地・運動場を不要とした。

 少子化の時代に大学の数を増やす政策は、事前規制から事後チェックへと行政の関与を転換させた。これはどこかで聞いたことがないだろうか。M&Aを促進する商法改正や、訴訟社会に持ち込む司法制度改革を連想させる。わが国を米国流に改造する構造改革の一環ではないのか。

 先ほど触れた「総合規制改革会議」は『年次改革要望書』に明記された郵政民営化や製造業への労働者派遣、三角合併の解禁、医療費の自己負担増など、米国の要望を次々と法案化してきた。後に「規制改革・民間開放推進会議」に名称を改めるも、オリックス会長の宮内義彦氏が10年以上議長を務めてきた。

 『年次改革要望書』に構造改革特区の導入は提言されているが、大学の設置認可に関する記述はない。同文書にはそもそも「教育」分野がない。しかし、『日米投資イニシアティブ報告書』には、日本の大学教育に関する注文が記されている。

 前者の文書は01年の小泉・ブッシュ会談で「成長のための日米パートナーシップ」が合意されたのを受け、分野横断的な議論の場として設置された「規制改革イニシアティブ」のたたき台。後者の文書は同合意を受け、外国直接投資のための環境改善対話の場とし設置された「日米投資イニシアティブ」の報告で、国内的には「対日投資会議」が実行化の舞台となる。

 『年次改革要望書』の存在を広く知らしめた関岡英之氏は『奪われる日本』の中で、2つの文書と会議を「車の両輪のように、『米国による日本改造』を推し進めてきた」と位置付けている。いずれも09年の鳩山政権誕生まで続けられ、文書が公開されてきた。
 
対日投資加速のための教育改革要求

 07年の『日米投資イニシアティブ報告書』には06年に続き、米国側関心事項として、「教育分野」の議論があったことが報告されている。ここには「外国大学の日本校」の課程修了者に日本の大学院への転入資格が認められたことへの評価や「外国大学の日本校」に「税制面での問題解決」の必要性を求めたことなどとともに、「私立大学設置の際の校地・校舎の自己所有要件緩和措置に関しての説明を求めた」と記されている。

 この項目の後段には、日本政府が「外国大学の日本校」に対する税制優遇措置の適用について「解決」したことを説明したと書かれている。続いて「2007年4月に、日本国内全国において、一定の要件を満たす場合に、私立大学設置の際、必ずしも校地・校舎の自己所有が求められたなくったことを説明した」と明かしている。同年に校地・校舎の自己所有要件の緩和に踏み切ったのは事実であり、米国の強い後押しがあったことをうかがわせる。

 一連の真紀子たたきでは新大学の設置を申請する経営者の怒りの声が頻繁に伝えられたが、彼らは米国が求める緩い規制に便乗する立場にすぎない。よもや、自分たちが大臣を屈服させた英雄だと思い込むほど厚顔だとは考えたくない。

 在日米国商工会議所(ACCJ)が06年に出した『ACCJビジネス白書——相利共生——』には「人的資源」の章が設けられている。「教育」の項目では「問題は、文部科学省が堅持している時代遅れの政策、すなわち、教育の質よりも教育機関運営の継続性と安定性を重視する政策である」と、米国流の新基準を認めない日本政府の体質を非難している。メディアの批判の仕方そのものではないか。

 では、米国は何のためにわが国に教育分野での改革を求めているのだろう。普通に考えれば、自国の企業を海外に進出できるようにし、もうけさせるためと想像できる。

 09年の『日米投資イニシアティブ報告書』には、03年に小泉首相が「対日直接投資残高を倍増させる」目標を掲げ、01年の6.6兆円から06年の12.8兆円に増やしたことを評価する一方、06年に日本政府が「対日直接残高をGDP比で倍増となる5%とする」新目標を設定しながら08年末時点で3.6%しか達成していないことを指弾する記述が見られる。

 しかし、米国は自国資本を日本の大学経営でもうけさせたいだけなのだろうか。米国側の文書を読むと、日本に進出した自国企業に現地から人材を供給させたい狙いがあることが分かる。06年の『ACCJビジネス白書』には、対内直接投資を加速させる方策がつづられている。

 「日本は外国人投資家に対してより魅力的で手厚い投資環境を提供する必要がある。これには日本での円滑な業務運営に必要な人的資源を外国企業が確保できるような環境を整えることも含まれる」とし、外国企業に優良な労働力を提供するための教育システム、労働市場、移民政策の必要性を訴えている。

国際基準で文化的個性奪い、移民も

 裁量行政で各業界を指導してきたわが国にとって事後チェックへの転換は社会慣習を改めるものである。マスコミは大臣の不認可発言をやり玉に挙げ、「受験生がかわいそう」との街の声をお茶の間に連射していた。しかし、事後チェック体制の下では、経営に失敗して廃校になった大学の学生の胸中をどう考えるのか。モルモットではないか。母校を失った卒業生の立場も弱くなるだろう。これらの方が深刻なのは明らかだ。受験段階では志望校を変更すればよいだけだから。

 ACCJが10年11月に出した『成長に向けた航路のへの舵取り——日本の指導者への提言——』は「すべては教育から始まる」の章を設け、わが国の教育改革に言及している。08年に福田首相が打ち出した「2020年までに30万人の留学生を受け入れる」目標を評価しながらも、全学生に占める留学生の割合が3.5%にとどまることを問題視し、その受け皿作りを求めている。

 同文書は章の最後に「高等教育全般の改革」と題し、私立大学への政府補助金を廃止して学生への奨学金や貸付金に回すことを提言。「これにより大学間の学生獲得競争はさらに活性化し、大学運営の効率化をもたらす」と主張している。大学増による淘汰(とうた)を望んでいるのだ。

 この提言書ではさらに、国公立大学の授業料値上げや大学と企業の連携深化により財政的自立を高めることを求めている。このような「柔軟性」を持つことは「優秀な教育制度を備えている諸国の認証基準に合致する最小限の基準を維持する」と記す。つまり、日本の大学の認証基準を国際基準に統一することを目指していることが分かる。

 外国政府が自国の企業を進出させるために、教育制度を変更させるのは実にごう慢である。しかも、文化的個性を奪うだけでなく、移民をも受け入れよと言っている。お金と民族的秩序を天秤にかけ、前者が重要としているのだ。他国のことだから平気なのだろうし、指令を出している者は人類ではないのかもしれない。

 田中文科相の翻意は、衆院文部科学委員会与野党委員が総掛かりで説得に当たった成果だという。所管大臣が認可の是非を決めるのが「職権乱用」に当たるなら、大臣は何をするのだろう。残念ながら、外国の要求を国内法的に整備するのがわが国の官僚の仕事になっていて、御用学者が名を連ねる審議会はそれにお墨付きを与える存在。大臣はそれを追認する立場すぎないのが現状だ。

 今回の一件は、09年春の鳩山邦夫総務相の辞任劇を思い出させた。日本郵政西川善文社長の続投を認めない意向を示したため、麻生首相から更迭された。旧東京中央郵便局舎の乱開発を含む郵政民営化の履行を求める外資の強大さを感じさせた。現職の政治家で外圧に抗せた大臣は、郵政改革法案を閣議決定させた亀井静香元郵政改革・金融担当相くらいか。

 戦後のわが国の改革は、すべて米国の要求に基づくといって過言ではない。マスコミを総動員した政治家バッシングには、必ず外圧の関与があることを見落としてはならない。