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白人の美についての歴史

コピペだげど
白人の美についての歴史を貼って行く

歴史上「人が美しいと感じる身体の比率はなにか?」について具体的に

数値を用いて証明したのは、かの有名なレオナルド・ダ・ビンチである。

彼は、ギリシャ・ローマ時代の彫刻、ルネッサンスの絵画などから、何度も計算して

例えば、指の長さ:手の長さに一定の比率があることを発見して、それを自ら

の創作に応用したといわれている。

現代、もっとも進んだ美容整形技術を誇るアメリカ。その美容整形の3Dグラフィックを 用いた整形後のシュミレーションも、ダ・ビンチの美の比率を用いた詳細な形状を元にして作られているといわれる。白人とは、美の造形に対して初めて感性ではなく、理論的に説明した人種なのである。

ここまで、徹底した美の造形学を高めた白人に、たかだか100年前に白人文化に触れた我々が接近できるはずはないのである。我々は初めから、美意識というものを白人から教わったのである。 それまでの我々の美とは感性であり、好みであって、説明不能なものであった。
美を説明することは、それがすなわち白人の作り出した美を説明することと同意義なのだ。

白人とは地球のどのあたりで誕生したのか?白人が生まれたのは今をさかのぼること5万年前今のコーカサス地方アルメニア) あたりだといわれている。元々は狩猟民族であり、農耕よりも、馬を操る術に長けていた人間であった。

白人が最初に大規模な移動をしたのはインドの侵入(今から4000年前)が最初といわれる。

この頃から、すでに白人は現地のドラビダ人を容姿によって差別をした。有名なカースト制度の誕生である。

すなわち、肌の白い、白人的な容貌をした人間をバラモン(宗教的特権階級)、クシャトリア(貴族)として
支配階級とし、それ以外のドラビダ人を平民、あるいは非下色賎民(乞食以下)として完全に区別した。その元になったのは、容姿の違いなのである。この制度に対する反逆が仏教の誕生である

インドに侵入した白人はその後1000年ほど後にイラン高原に侵入した。

この頃から現地に侵入した白人たちは自らを「アーリア人(高貴な人)」と呼んだ

今のイラン、イラクの語源はアーリアに由来する。イラン高原に侵入した白人はやがてエジプト・メソポタミア全域を支配に収め、帝国を形成する。一方、アルメニアから

黒海北岸を経てバルカン半島に侵入した白人はギリシャ人と呼ばれ、独特な都市国家を形成する





近代ヨーロッパの発祥の地とされるギリシャ。このギリシャで容姿による徹底的な間引きが行われていたことは有名だろう。スパルタ教育で有名なスパルタだが、容姿端麗な少年は将来を担う人材として、早々に親元から切り離して教育をほどこす。

容姿が醜いものは、3歳までに谷底に捨ててしまうという、あのライオンの逸話は実際の話しからきているのだ。

そして、そこまで厳格ではないといわれた古代民主主義のアテネではどうだったのか?アテネでは容姿の醜いものは政治に参加することはできなかった。ソクラテスは自分の最大の欠点は容姿が醜いことであると弟子に語っている。不細工だから政治家になれないのでは、日本は全部落第だが、古代の都市国家では当たり前のことであった



ギリシャとペルシアは戦争を始めた。この戦争から勝利したアレクサンダーは人類最初の民族融合政策(?)なるものを打ち上げた。すなわち、自分の部下の武将を現地のイラン人と結婚させたり、自らも皇女を結婚した。ヘレニズム文明の誕生である

だが、ギリシャ人と現地の人間の混血は進まなかった。ギリシャ人は自分たち以外の民族を「バルパロイ(野蛮人)」と称して、支配階級になったあとも、結婚はギリシャ人同士で続けていたのである

クレオパトラといえば、黒髪のおかっぱが有名だが、彼女の自髪は栗色の巻き毛である。黒髪はエジプト風のカツラをかぶっていた。また、クレオパトラの王朝も近隣のギリシャの王朝とだけで通婚し、決して現地人の 血は入れなかった。こうした純潔主義はヘレニズム300年間を通して決して破られることはなかった


古代ギリシャにおける造形美とはなんだったのか?それは現代にまで残る彫刻やコインの彫像からうかがい知ることができる。有名な話しがある。古代ローマが進出著しかった時代、ポントス王国にミトリダデス2世という超イケメン王が現われた。彼の容姿はコインの横顔から今でも伺うことができるが、
典型的なギリシャ鼻、巻き髪、切れ長の壮麗な顔立ちで当時のギリシャ全土から「アポロンの再来」とまで
いわれた超絶のイケメン王であり、人気が抜群に高かった。

あのローマが苦渋したのは、イケメンっぷりに
太刀打ちできなかったといわれるくらいなのである。彼は結局自殺したが、ローマですら彼を生け捕りにすることはできなかった

恐らく、ローマ人も彼のギリシャ的美にあこがれていたのだと想像する



地中海と西ヨーロッパを支配した世界最初の帝国であった古代ローマ帝国ローマ帝国はローマ人といわれる アイデンティティが存在した。すなわち、ローマ市民権をもつものは、肌の色、言語を問わずローマ人であるという 一見アメリカ的なイデオロギーが存在していた。しかし、歴史はイデオロギーではない、生身の人間のコンプレクッスを伝えている。



古代西ヨーロッパの住民であったケルト人。人種的には白人に分類されるが、茶髪、茶目、中頭の今のフランス人あたりを 想像してみるとわかりやすい。彼らは東に住むゲルマン人(金髪、碧眼)にあこがれて髪を染める風習があったとカエサルガリア戦記は伝えている。そして、ローマ人もまた、コンプレックスに悩んでいた。

ローマ人は魚食、パン主体の食事であったため、身長の低さをことあるごとにケルト人やゲルマン人から馬鹿にされていたと歴史は伝えている。実際、ローマ人も「我々はライン川ゲルマン人に比べると著しく身体が見劣りすることは認めざるをえない」と語っており、僻地のローマ人は最終的にゲルマン人と同化していった。

文化的にはギリシャ文化を継承しながら、ゲルマン人と同化していった古代ローマ人ゲルマン人の侵入以前にローマ人のゲルマン化は進んでいた

ローマ時代にすでに造形としてのギリシャ美とゲルマン的価値が融合していったのである