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在日に告ぐ! 盧武鉉元大統領の言葉 2009/ 4/16 21:43


戦後、朝鮮人は「準戦勝国民」という地位を連合国から与えられ、様々な犯罪をおかしました。


一番最初は1946年の「首相官邸暴動事件」です。約2000人の在日朝鮮人が「戦勝国民」の権利を謳って首相官邸に乱入し、警官隊や米軍憲兵隊と戦闘を行いました。


1948年には同じくして朝鮮人3万人が一斉蜂起し、破壊行動を行い、米軍憲兵隊(MP:ミリタリーポリス)の指揮下で鎮圧され、約1000人の逮捕者をだし、また大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁しました。アメリカ軍は緊急事態命令としこれを取り締まり、累計2000名近い朝鮮人を逮捕しました。


1951年、滋賀県では「日野事件」が勃発し、朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察を襲撃しています。


1952年の「吹田事件」では、朝鮮戦争の開戦をお祝いしていた「在日朝鮮統一戦線」の学生達およそ1100名が「革命思想」をもと興奮し、警察や街の工場施設を襲撃した上で拳銃を奪って逃走しました。この事件では113名が逮捕されました。


1954年に起きた第二の神戸事件では900名の在日朝鮮人が区役所や税務署を襲撃して破壊し、警官隊と戦闘を繰り広げ、188名の逮捕者をだしました。


このように数々の犯罪を繰り返し、米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計した所、47年から50年までの間で、殺人・強盗が4656件、レイプが224件、放火が57件、傷害が17552件、窃盗が44494件も記録されています。


集団での蜂起以外にも、朝鮮人個人の犯罪を朝鮮人全体が賛美した例も少なくありません。
1958年(昭和33年)8月20日、東京都江戸川区の進学高校、小松川高校に通っていた太田芳江さんが何者かによって犯され殺された事件がありました。犯人は犯行後に遺体から遺品を盗り、送りつけて遺族の悲しみを煽ることで楽しみ、また警察へ対しては自分の犯行を楽しそうに語る電話をかけました。この様子は全国的にラジオで報道され、犯人の残虐性に多くの日本人が畏怖しました。


後に逮捕された犯人である在日朝鮮人の李珍宇は、逮捕後に別の女性もレイプして殺した事を自供しました。通行中であった田中せつ子さん(当時23才)を突き飛ばして怪我をさせ、動けなくした所でレイプし、その後殺害しました。


犯人の李珍宇は死刑判決を受けましたが、犯人の母親は「息子の行いへ対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告をしていますが棄却されています。また、「差別されているのだから強姦や殺人を行っても仕方ない」と主張する、在日朝鮮人ら数万人の減刑嘆願署名が集まりました。これには共産主義者文化人の大岡昇平も協力していました。


当時、多くの在日朝鮮人が「我々は差別されていたので、日本人女性をレイプして殺しても仕方がない」という主張をしていました。これは、現在の朝鮮総連関係者が言う「植民地統治されていたのだから、日本人数名を拉致したくらいなんだ」という論調と酷似しています。


1968年には同じく在日朝鮮人金嬉老がライフル銃で日本人男性二人を射殺した上で旅館に立て篭もり、女性一人と九才以下の児童三人を含む九人を人質にとる事件をおこしています。この時もはやり同様に、金達寿らによって「差別されていたのだから、女性と子供を人質として虐待しても仕方がない。差別されていたのだから男性二人を殺害しても仕方ない」といった主張がされ、韓国では金嬉老を「日本人を殺した英雄」として賞賛するメディアが多数制作されました。


http://ameblo.jp/kane55/entry-10034171032.html
http://ameblo.jp/campanera/entry-10075588939.html