森田実の言わねばならぬ[83]
私は、小泉純一郎氏が政権の座につく10年近い以前に、小泉純一郎氏にインタビューなどで何度か会ったことがあります。その当時、私は、彼が総理大臣になるとは夢にも思っていませんでした。
小泉純一郎氏は2001年4月の自民党総裁選に勝利して総理大臣の座についたわけですが、自民党総裁選の最中、中曽根康弘元首相が亀井静香候補を下ろして小泉氏を総裁にするために動いているという情報が私のもとに情報が入りました。これは危ないことが起こったと私は思いました。
というのは、アメリカ共和党政権は1960年に安保改定をした岸信介元首相を徹底的に使ってきました。アメリカ共和党は、共和党人脈の岸信介を徹底的に活用しました。晩年の岸信介を使ってやったことは何か。それは、中曽根内閣をつくったことです。
1981年5月、鈴木善幸首相はレーガン米大統領との日米首脳会談のあと、「日米安保条約は軍事同盟ではない」と発言し、レ−ガンの怒りをかいました。レーガンは「こんな日本の首相とは一緒にやっていけない」と“鈴木おろし”をはかります。
このときキーパーソンになったのが日本の共和党人脈の御大・岸信介でした。岸は、田中角栄に“鈴木退陣”を要請したのです。田中は岸信介の要請に応じ、以後1カ月間、毎日“やめろコール”の電話をかけつづけたそうです。鈴木善幸も田中角栄からの電話は逃げることはできない。結局、田中角栄の執拗な説得に負けて鈴木首相は1982年10月に退陣を表明しました。
そのあと、中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎4氏が立候補した自民党総裁選が行われ、1982年11月に中曽根康弘が首班指名されました。この自民党総裁選は大ニュースになりましたが、米国政府と岸信介と田中角栄の関与は隠されました。その翌年の83年1月9日、中川一郎が自殺し、皆の関心はもっぱらそのことにいってしまい、鈴木退陣−中曽根内閣誕生の裏側に切り込む報道はなされませんでした。
岸信介は首相退陣後も綿密な情報収集を行っていたようです。各新聞社の実力ある論説委員級の中心幹部を身近に集めていた。そのほかにも岸に通ずる情報機関があったようです。それらのルートを通じて、岸信介は「誰がいつ誰に会った」という永田町の秘密情報を握っていたのです。岸信介が亡くなったあと、日本の共和党人脈を取り仕切ったのは中曽根康弘でした。中曽根はレ−ガン、父ブッシュの共和党政権時代の日本の総帥となったのです。
共和党の対日政策は2つの面があります。一つは外交・安全保障を支配する。これが共和党の他国支配のやり方です。中曽根内閣はこの方面で目立ったのですが、同時に、経済的にもアメリカに支配されました。1985年9月22日のプラザ合意によって日本の金(カネ)はアメリカに持っていかれるようになりました。中曽根、竹下は日本を経済的にもアメリカに従属する国にしてしまいました。
クリントンは対日政策において経済面に重きを置きました。クリントンは若い大統領でしたが、非常に頭のきれる男です。今の米大統領ブッシュがテレビによく写されるのは、ヘリコプタ−から降りて手を振る場面です。これは「ブッシュにしゃべらせるな」という振り付け役の演出です。これに対して、クリントンはよく記者会見をやりました。雄弁な彼はしゃべればしゃべるほど人気が上がったのです。クリントンおよび彼のブレーンはクリントンが大統領に就任する前から日本についていろいろ研究しました。その結果、日本の郵政資金をアメリカに持ってこようと決意したのです。
中曽根時代にレ−ガンがやったことは、プラザ合意によって円を高くし、日本政府と日銀に高くなった円でドルを買わせ、そのドルでアメリカ国債を買わせるということです。亡くなった吉川元忠神奈川大学教授は、著書の『マネ−敗戦』のなかで、どうして日本は円で米国債を買わなかったのか。まずドルを買わされて、そのドルで米国債を買ったため、完全にアメリカに経済・金融の主導権を握られて日本経済を支配されてしまったことを指摘しました。まったくそのとおりでした。ここに中曽根、竹下の罪深さがあります。ドルを買いそのドルで米国債を買ったため、アメリカが強くなった。アメリカは日本のカネを手に入れることによって財政赤字を減らすことに成功しました。
クリントンとブレーンたちは、レーガン政権が得たもの以上のものはないかと検討し、350兆円の郵政資金に目をつけたのです。クリントンが大統領になった年、東京でサミットが開かれました。宮沢内閣時代です。このとき、クリントンは宮沢首相に「日米の経済政策を一致させる必要がある。そのためには日米両国政府間で毎年、改革要望書を交換して経済政策の調整を図りたい」と提案しました。1993年7月8日のことです。宮沢首相はその時は断わりました。宮沢氏は戦後ずっと日米関係に携わってきて、日米の力関係の差をわかっていたのだと思います。だから、いったん断わったのだと思います。ところが、2日後の7月10日に再会談を申し入れられ、この提案を飲んでしまった。ここが宮沢首相の弱いところです。
1993年7月18日の衆議院総選挙で自民党は敗北し、宮沢内閣は総辞職しました。結局、宮沢氏は最後に“どえらい置きみやげ”を残したのです。その“どえらい置きみやげ”の真の意味についてについて、当時、日本の誰もわかっていなかった。結局、アメリカが日本の郵政資金に目をつけていることが露骨にあからさまになれば、日本が国をあげて猛反発することは明らかです。そこでクリントンは「経済政策の調整」というオブラートをかぶせ、日米両国政府間で「年次改革要望書」を交換することを提案したのです。これを宮沢首相は飲まされてしまった。「日米両国の経済政策の調整」の真の狙いは「郵政民営化」にあったのです。
宮沢内閣が倒れたあと、細川内閣、羽田内閣という非自民連立政権が生まれましたが短命に終わり、1994年6月に村山富市自社さ連立政権が誕生しました。私は、この間に「年次改革要望書」がどのように認識されていたのか調べてみましたが、どうも、この問題については、きちんとした引き継ぎはなされていなかったようです。
1994年11月に1回目の「米国政府による日本政府に対する年次改革要望書」が出されましたが、このなかにはクリントンが一番欲しい郵政民営化の要求は入っていませんでした。アメリカは用意周到、本音を隠したのです。1995年末に出された第2回目の「年次改革要望書」で郵政民営化の要求がなされ、それから毎年、郵政民営化の要求が入りました。アメリカの要求の大きな柱は、NTTの分割民営化と郵政民営化の2つでした。
建築基準法の改正、商法の大改正、公正取引委員会の規制強化、弁護士業の自由化などの司法改革も「年次改革要望書」に沿ったものでした。
ある日、毎日新聞の法務省担当記者が私のもとに駆け込んできてこう言いました。「今度の新しい司法制度(裁判員制度)はアメリカの司法制度を横文字から縦文字にして法律化したものです。アメリカの司法制度を翻訳して日本の司法制度にしたのです。とんでもないことが行われています」、と。
アメリカに合わせた司法制度にしようというこの転換は、日本の司法制度の歴史的な大転換ですが、しかし国民的にはほとんど議論されませんでした。国会でもほとんど議論されませんでした。議論をほとんどしないまま法律を通してしまったのです。その結果、多くの国民が気づかないまま、司法上の大転換が行われたのです。
郵政民営化の要求は、1995年以来、アメリカの「年次改革要望書」に一貫して盛り込まれていました。それには大きな理由があります。アメリカという国は実に好戦的な国で、絶えずどこかで戦争をしています。軍費にカネがかかり国家財政はつねに火の車です。財政赤字をどう克服するかが歴代の米国政府にとっての一番大きな問題でした。
80年代、レ−ガンは大軍拡と大減税という二律背反の政策を取りました。大減税によって米国民の人気を獲得し、大軍拡によってソビエト連邦を圧倒するという政策を取ったのです。ともにカネがかかります。政府財政に大穴があいてしまいました。この結果、80年代半ばにはアメリカの国家財政は破綻するのではないかと言われるほどになりました。
70年代のアメリカはベトナム戦争に敗れ、二度の石油ショックに叩かれました。70年代末、アメリカをどう再建するか、共和党系の学者たちが議論しました。その結論は「2つの敵に勝こと」。1つの敵はソビエト連邦、もう1つの敵は世界第2の経済大国日本です。
この議論には日本人学者も参画していました。名前は伏せますが、その人は私の1950年代の東大の学生時代の友人で、この当時、自民党の中心的なブレーンとして日米の学者交流の総元締め的な役割を果たしていました。その学者から、80年代末、「エズラ・ボ−ゲルに会ってくれ」と頼まれました。日本でベストセラーになった『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ボーゲルはハーバート大学教授であるとともに、CIAの極東部長でした。彼は、実は、レーガン政権の対日戦略の一翼を担い、日本を「褒め殺し」するような役割を果たしていたのです。私の友人はボーゲル氏の親しい仲でした。私は彼から真の日米関係を聞いていました。
繰り返しになりますが、レーガン政権の2大戦略は、1つは軍事面でソ連邦を圧倒すること、もう1つは日本の富を吸い尽くすことにありました。この対日政策を実現するために岸信介を使って中曽根内閣を誕生させ、中曽根内閣にプラザ合意を飲ませて日本の富をアメリカが吸いつくすメカニズムを確立したのです。今でもこのメカニズムは続いています。
クリントンは350兆円の日本の郵政資金を吸い取り、それによって米国の財政を健全化しとしたのですが、これはクリントン時代には実現しませんでした。このアメリカの悲願が実現したのがブッシュ−小泉の時代だったのです。郵政民営化のためには小泉の登場が必要でした。
小泉首相が誕生したとき、アメリカの「年次改革要望書」が日本の政界・官界でどの程度認識されていたのか――調べてもよくわかりませんでした。外務省は知っていても口が固い。財務省の人たちも黙して語らずでした。