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第一章 大蔵省の支配構造

第一節 大蔵省の誕生
日本の国家財政を一手に握り、「官庁の中の官庁」として君臨し続ける大蔵省。

その大蔵省が、財政・金融を担当する中央行政機関として創立されたのは明治二(1869)年七月八日のことだ。

昭和四十四(1969)年で百周年を迎えたわけだから、九十七年で満百二十八歳ということになる。

明治維新で生まれた大蔵省は西南の役、日清・日露の両戦争、さらには第1次、第2次の大戦をも凌ぎきり、明治、大正、昭和、平成という四代にわたり日本の財政を手中にしてきた。

余談だが、「大蔵省」という言葉は日本書紀に出てくる。

「朱鳥元年正月十四日・酉の刻、難波の大蔵省失火」という文書である。

朱鳥元年は西暦でいう六八六年である。

ついでながら「大蔵」とは、税として納められたコメの蔵のことで、当時は神に捧げる「斎蔵」、朝廷に納める「内蔵」と並んだ三蔵のひとつである。

いずれにせよ、税たるコメを取り立てる役が主税であり、主計がそれを分配するという機能組織体であることには変わりはない。

大蔵官僚の言う「健全財政」の信念のルーツは、実に千三百年も前に遡るというわけである。

むろん、財政とはたんなる経済政策上の技術的な行政ではなく、時の政府と結びついた「政治」との表裏一体を成していたのだ。

だが大蔵省が絶大な権力を持っていたがゆえに、時の政府と多くのドラマを演じることになり、大戦中には軍部の予算拡大に抵抗したこともある。

しかし結果的には独走を許し、戦時財政に協力して敗戦を迎えたのである。

しかしながら、大蔵省は、敗戦によってその力を失うことはなく、当時、大蔵省を凌ぐ権力を誇っていた内務省、軍部がGHQによって分割・大幅解体されたのに対して、大蔵省は間接統治実施のための「官僚機構温存策」に救われ、敗戦を無傷でしのいだのである。

他方、国家財政を握る主計局の権限については、その分散・縮小を狙って、政治的に多くのアプローチも行われ、戦前は廣田弘毅内閣の時に、軍部が主計局をたんなる事務処理機関とすべく図ったこともあるし、戦後の鳩山一郎内閣時には、党人派の河野一郎行政管理庁長官が「内閣予算局構想」をブチ上げて権限縮小を主張したこともある。

しかしながら、いずれにせよ主計局の地位を脅かすにはいたっておらず、保守本流と直結した官僚機構体制の姿を、ここに垣間見ることができる。

以来、「官庁の中の官庁」としての地位は、現在にいたってもいささかもかわることはないのである。


第二節 主計軍団の超パワー
大蔵官僚が、“官僚の中の官僚”として、日本の官僚機構の頂点に立っていることは、彼ら自身が自らを「われら富士山、ほかは並びの山」と称していることからもよくわかる。

政府行政機関のひとつの省にすぎない大蔵省が、なぜこれほどまでに他を圧倒する権力を持ちうるのか。

それはいうまでもなく、日本の国家予算のすべてを、超エリート軍団といわれる大蔵省の主計局が、一手に握っているからである。

つまり、主計官僚の持つ「予算編成権」こそは国家支配の最大の武器ということである。

政治というものが、つきつめれば“金の分配”にかかっているとするならば、大蔵省は機構的にその最大の権力を持っている省ということだ。

したがって、大蔵省から主計局をとってしまえば、ただの“金庫番”にすぎなくなり、官庁としての権限は下落する。

主計官僚たちもトップにいることを認めているため、省内にあっては「主計官僚にあらずんば大蔵官僚にあらず」と、その“富士山”の頂上部分に位置していることをはばからない。

その事実を示す象徴的な数字がある。

国家財源を牛耳る主計局の首領である主計局長は、他の局長よりも給料が厚遇されているのである。

他の「一般局長」が国家公務員指定職七号棒(平成七年度で棒給月額九十九万二千円)であるのに対し、主計局長だけは同九号棒(同百十五万千円)と“次官級ポスト”といわれる財務官と同額だ。

他省庁をみわたしても、九号棒になりうる局長ポストは総務庁の人事局長だけ。

それも年次の関係で実際には八号棒にとどめられているので、事実上は主計局長のみが“九号棒局長”である。

まさに全省庁を通じての最重要局長であり富士山といえよう。

また、霞ヶ関にいきるエリート官僚達のサークルは、軍隊以上に階級と年次がおもんじられる世界であり、その原則は省庁という枠をこえて貫徹されるが、こと大蔵省、とりわけ主計局と他省庁との関係にあっては、この原則は全く通用しない。

いうまでもなく、主計局が予算編成権という各省庁の生殺与奪の権を握っているからである。

予算折衝においては、課長補佐クラスである主査は各省庁課長と、課長クラスである主計官は各省庁次官を相手にする。

それぞれ、一または二階級上の相手であり、相手をするといっても、もちろん対等ではない。

なぜならば、主計局は査定官庁であり、他省庁は要求官庁であり、要求−査定という関係にあっては、査定する側が圧倒的に強いことはいうまでもない。

主計官僚達が予算折衝において他省庁の先任官僚たちを相手にし、なおかつ圧倒的に優越的な立場に立つ時、彼らは「われら富士山、ほかは並びの山」という意識を体で実感する。

主計局内では「昔陸軍、いま主計局」ともいう。

戦前、戦中は陸軍が強大な軍事力と統帥権の独立によって日本を事実上支配したように、現在は主計局が予算編成権、査定権を行使して、日本の国家全体をコントロールするというのだ。.

現主計局長は、次期の次官といわれる小村 武(昭和三十八年入省・東大法)以下、総勢三百五十名の職員が、日本国家の総予算を編成するために、あたかも軍団組織のように配置

されているのが、主計局の特徴である。

彼らの“敵”は、圧力団体・国会議員をバックに持つ各省庁であり、予算査定合戦は、各省庁の概算要求が締め切られる八月三十一日の翌日から、その火ぶたが切って落とされる。

九月一日、この日をもって、大蔵省と他官庁の血みどろの“予算合戦”が始まるのだが毎年、他官庁の計上する予算は大蔵官僚によって、ことごとくブッタ斬られてしまう。

なぜ、いつも大蔵省の一方的勝利に終わるのか。

“主計軍団”といわれるその布陣ぶりを見ながら、それを探っていきたいと思う。


第三節 三個師団・九連隊
主計軍団の総大将は主計局長であり、その下に師団長格にあたる局次長が三名存在する。

筆頭次長が溝口 善兵衛(昭和四十三年入省・東大経)、次席次長が林 正和(昭和四十三年入省・東大法)、末席次長が細川興一(昭和四十五年入省・東大法)である。

いずれも各年次のエースであり、将来の主計局長、次官候補だ。

ちなみに、一昨年、東京協和・安全の二つの信用組合による不正融資事件に関わった中島義雄は、元主計局次長にまで上りつめ、将来の次官候補だっただけに、本人にすればさぞかし悔やまれたにちがいない。

大蔵省は、大臣官房、主計、主税、関税、理財、証券、銀行、国際金融と一官房七局からなるが、局次長が三名もいるのはこの主計局だけで、理財には二名、国際金融には一名いるが、他の局では次長というポストすらない。

これだけでも、主計局が大蔵省の大黒柱であることがわかる。

この三名の師団長の下で、連隊長として最前線の“敵”と戦うのが九名の主計官であり、いわば、主計軍団の実戦部隊は三個師団九連隊で組織されているとみてよい。

不世出の軍事的天才ナポレオンが、フランス革命ナポレオン戦争の過程で「発明」した師団という単位が、それ自体で完結した戦闘単位であるように、主計軍団の各師団もまた、事実上独立した戦闘集団といえる。

もっと極端に言えば、日本国民一億二千万人が納めた税金、つまり日本の国家予算は、たった九名の主計官によって動かされているのである。

九名の主計官は各係に分かれており、総理府・司法・警察、防衛、地方財政補助金・大蔵・外務・経済協力・通産、文部・科学技術・文化、厚生・労働、農林水産、運輸・郵政、建設・公共事業の各係だ。

各係の名称を見れば分かるように、各主計官はおおむね一または二省庁を担当しており、このうち総理府・司法・警察担当は皇室をはじめとして国会、内閣官房総理府本府、同外局のうち防衛庁科学技術庁をのぞく各庁、裁判所、法務省検察庁、警視庁と、カバーする範囲は極めて広いが、予算額そのものは少なく、関わる問題もそれほど複雑ではない。

重みのある主計官ポストは建設・公共事業、厚生・労働といわれる。

建設・公共事業係は、多額の公共事業費をかかえ、建設省だけでなく公共事業関連官庁や地方自治体に強い影響力を発揮できるからだ。

厚生・労働係は、一般歳出の中では最大の二十兆円余の社会保障費を担当しており、来るべき高齢化社会に向けて、職務内容はますます重要になってくる。

農林水産係は額としてはそれほどでもないが、国家の食料政策全般にかかわり、チェックすべき項目が多く、重要なポストとされる。

つまり、政治家との接触が強い部門の担当官こそが、仕事も難しいだけに認められる率も高いのだ。

事実、歴代の事務次官は主査・主計官時代に、公共事業、農水、厚生といった担当官を歩いている者が多い。


第四節 参謀本部・主計局総務課
強大なパワーを誇る主計軍団の三個師団は、予算編成作業という戦闘の第一線に立つ。

どのような軍隊にも前線部隊(ライン)とともに、それを背後、側面から支える参謀本部(スタッフ)があるように、主計軍団にも参謀本部が存在する。

それが総務、司計、法規、給与、共済、調査の六課である。

さらに、予算の現場ではなく参謀本部を担当する主計官が三名いて、うち二人は総務課に、一人は法規課に属している。

総務課は参謀本部の中枢であり、主計官僚たちが参謀本部とよぶ時は総務課だけをさす場合が多い。

国の予算を総括し、財政政策一般に関する事務をつかさどり、総務課長は主計軍団の参謀長である。

そして、参謀本部の二人の主計官のうち企画担当主計官は、財政投融資も含めた国の予算全体の枠組み、性格ずけを企画する作戦本部であり、したがって、企各担当主計官は、ライン九人、スタッフ三人、計十二人の主計官の中で最重要ポストといえる。

前線の主計官を経験してから企画担当主計官をつとめ、総務課長に昇進するのが主計官僚のエリートコースだ。

もう一人の予算総括担当主計官は予算現場の主計官単位でまとまった予算をまとめ、つみあげる作業をおこなう。

かつての、ノンキャリアの星、故石井 直一印刷局長がつとめたポストであり、現在もノンキャリアがつとめている。

司計課は大蔵省組織令によると、実に十八もの所掌事務があるが、最大の仕事は国の決算を総括することだ。

かつてはキャリアのポストであったが、現在はノンキャリアの主計局での最高位ポストであり、ここを最後に、東北、四国などの地方財務局長に栄転する例が多い。

法規課は財政、会計に関する制度の調査、企画、立案をおこない、各省庁が国会に提出する予算関連法案をチェックし、財政法や会計法の解釈、運用も仕事だ。

法規課担当の主計官は、かつてはノンキャリアがつとめたこともあったが、現在はキャリアである。

給与課は国の予算のうち給与に関する部分を総括し、共済課はその名の通り、国家公務員等の共済組合に関する制度の調査、企画、立案を行い、国家公務員等共済組合連合会などを監督する。

調査課は内外の財政制度や運営に関する調査を行い、財政に関する統計を作成、分析して、長期的な財政運営の見通しなどもたてる。

このほか、参謀本部には主計官と主査の中間に位置する主計企画官が2人いて、それぞれ財政計画と調整を担当している。


第五節 団結の秘密・「七夕会」
さらに、前述した主計局の総務課長には、重大な任務がある。

大蔵省は他官庁と比べて“大蔵一家”と呼ばれるように、その団結力には盤石の強さを発揮する。

中でも大蔵省の中枢である主計局は、より強い連帯意識で結ばれた局であり、その団結力の秘密は、キャリアの主計官僚の多くが将来の幹部候補生ということもあるが、その彼らを支えるノンキャリア組の再就職先(天下り先)を、それこそ「死ぬまで」面倒を見てやるという“一家の掟”があるからだ。

その連隊組織が「七夕会」というOB会である。

会員はノンキャリアの退職者と総務課長経験者のみで、主催者は現役の総務課長である。

この「七夕会」を作った発起人は、戦前二度の大蔵大臣をつとめ、戦後においても“大蔵省の主”として力を持っていた故・賀屋興宣

その賀屋が、予算編成で一番苦労しているのは、キャリアの主計官や主査よりも、その下で日夜地道に働いているノンキャリアの職員たちだ、と発言したことで組織された。

主計局職員たちのモーレツな仕事ぶりは後ほどの章で詳述するが、予算編成時の仕事は驚異に値する。

山積された資料と数字との闘いから、ノイローゼ気味になる職員もあらわれ、大蔵原案が提示される十二月中旬、“ホテル大蔵”と自嘲をこめて呼ばれる仮眠室に連日泊り、平均、三、四時間の睡眠でがんばる。

しかし、ノンキャリアはいくら働いても、キャリアのように大蔵省の幹部になることはなく、多くは課長補佐以下で退官していく。

そんな彼らを慰労するために生まれたのが、このOB会なのである。

第一回のOB会が開かれたのが昭和二十七年七月七日。

ちょうど七夕の日であったことから、発起人の賀屋が「七夕会」となずけた。

全体に一家意識の強い大蔵省でも、普通は定年退職後、七、八年ぐらいまでしか再就職の世話はしないのだが、主計局の場合は死ぬまではもちろん、死んだ後の葬式まで面倒を見てくれるのである。

そのため、「七夕会」はたいてい、一ツ橋にある旧大蔵大臣公邸か、三田にある大蔵省所有の三田会議場で催されるが、毎回、会員の八割以上が集まるらしい。

会では、歴代の大蔵事務次官、主計局長、また、現役の次官、主計局長も出席し、ノンキャリアの労をねぎらう。

これほどの面倒見のよさがあれば、“主計軍団”の強固な忠誠心が生まれるのも当然というべきであろう。

また、そうでなければ、たった四ヶ月間で日本の国家予算を編成することなど出来ない。かくして三十余年の歳月を、主計局のために献じたノンキャリアたちは、「七夕会」の会員となり、退職後の人生を主として公団や公庫の経理部門に“天下り”していくのである。受け皿としての公団公社側も“財布のヒモ”がついてくるとなれば、ポストを用意しないわけにはいかない。

これこそ主計軍団のパワーエネルギーなのである。


第六節 花の主計官僚
ここで少し、前述した最前線部隊の“花の主計官”と呼ばれる主計官についてふれてお

こう。

主計官は、職制でいえば課長職に相当し、彼らの下には部隊長というべき、数人の主計官補佐がついている。

主計官補佐は各省庁の予算査定権をもつ「主査」と、そうでない課長補佐とにわかれ、主査はほとんどがキャリアであり、将来の幹部候補生。

ただの課長補佐は全員がノンキャリアである。

主査の年齢は主計官より十歳ほど若く、三十五歳前後だが、ノンキャリアの場合はこのかぎりではない。

特筆すべきは、常に大蔵省のベストメンバーで組織され、現在十二名の主計官がいるが、その学歴を調べていくと、総務課の児島広喜、総理府・司法・警察担当の松川 忠晴を除いて、全員が、東大(法九名、経一名)出身者なのである。

ちなみに、児島はノンキャリアで、香川商業短大卒、松川は京大・法卒。

もともと、大蔵省に入ってくるのが、東大法卒の数が多いのも事実だが、そのなかでも主計局というところは、大蔵省の中枢部門にあたるところなので、新人採用の段階から“超エリート”しか配属されないようになっている。

毎年、二十数名の新採用のうち、主計局に入ってくるのは三、四名、彼らは東大法のトップ組か、国家一種の最上位の連中ばかりであり、最初から、将来の次官、局長候補が入ってくるので、さらに超エリート集団になるのである。

また、主計局というところは超人的な能力を問われるところであって、例えば、一人の主計官が九月から十二月までに目を通す関係書類は、積み上げると自分の背よりも高くなり、これを読むだけではなく、解釈も加えて理論武装するため、徹夜の連続となり体力も要求される。

このため、主計官僚は常にベストメンバーで組織されるのである。

今度、日銀総裁に就任した松下 康雄(元主計局長・元大蔵次官)は、主査時代から将来の次官と呼ばれた逸材であった。

主査といえば三十代の半ば頃であり、その当時から二十年後が予測されたのである。

とくに、この主計局長のポストは、次期事務次官になる人物が就任するといわれていて、それはこれまでの大蔵省人事を見ても明らかだ。

戦後、主計局長の椅子に就いた者で、そこから次官にならなかったのはたったの二名しかいない。

だが、この二名も主計局長で退官した元総理の福田 赳夫と、橋口 収(現広島銀行相談役)だけである。

しかも、その橋口ですら、当時の“角福代理戦争”にまき込まれ、田中系だった高木文雄(現日本興業銀行監査役)に次官の席を譲った、政争の被害者だったと見られている。

そのためか、橋口は、大蔵省の次官レースでは敗れたが、当時創設された国土庁の初代事務次官に横すべりしている。

主計局長というポストは、いずれにしても“事務次官”前の最重要ポストであることにはかわらない。

要するに、日本の国家財政を牛耳る彼ら主計官僚は、機構そのものが強大な権力を持っていることもあるが、官僚社会に入ってきた時から“超エリート”が集められ、最高の実力集団組織を形成することによって、名実ともに日本の支配権力を一手に握ることになるのである。