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l加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①  戦国大名はほとんどがキリシタンであった。この事実の重さを改めて知ることになる

l加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①
投稿者:田中進二郎
投稿日:2020-09-20 20:46:50

加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった ① 田中進二郎

 このたび、副島隆彦先生の監修と推薦文を頂き、電波社より『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』が出版されることになりました。⬇著者の田中進二郎です。


秀吉はキリシタン大名に毒殺された


 1冊の本を書くというのが、とても大変であるということを、身をもって学ぶ貴重な経験になりました。9/28に発売開始予定、ということで、この場をお借りして、宣伝させて頂きます。(少し製本作業が遅れて、9/24の発売予定日に間に合わないのではないか、と思われます。)

 『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』のタイトルは、副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(2016年 PHP刊)の間を埋める内容である、ということです。『信長はイエズス会に爆殺され、・・・』以外の副島先生の著作からも、理論や知識を借用させて頂きました。

 大小含めて、全部で30箇所ぐらいあります。ですから、副島先生の本の読者にとっては、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』は、馴染みやすいのではないか、と思います。ただ、全て著者の理解した範囲での、副島理論の引用、活用であることはお断りしておかなくてはなりません。

 副島先生から頂いた推薦文の冒頭で、「本書ー『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』ーの圧巻は、加賀(石川県)金沢の大名、前田利家のもとに落ち延びた、キリシタン大名の筆頭、高山右近が、そのあと25年にもわたり、加賀でイエズス会宣教師たちとともに密かに布教活動を続けていた事実を明らかにしたことである。秀吉のキリシタン禁教令(バテレン追放令)天正15(1587)年6月のすぐあとからだ。金沢は今やキリシタン文化都市として知られる。」
と紹介して頂いています。

 本書の後半の主人公は、秀吉、家康ら天下人と、キリシタン大名高山右近前田利家蒲生氏郷、宣教師ヴァリリャーニです。

 利家の正室・まつや、利家の四女で宇喜多秀家正室だった、豪姫も重要です。豪姫は、関ヶ原の戦いで西軍についた夫・宇喜多秀家八丈島に流されたあと、1608年に備前岡山から生まれ故郷の金沢に帰還しました。この年に、高山右近は金沢教会(現在の金沢城兼六園の入り口辺りに存在した)に、豪姫を招待して日本最初のクリスマス・パーティーを開いた、ということです。

 右近の金沢での布教活動について、実際に現地調査を行ったところ、新たに興味深い事実が分かってきました。本書で書き切れなかった部分を中心に、以下補足として書きたいと思います。
(写真貼り付けに失敗しているだろうな、、、。空白は写真を入れてるつもりなんですが)

キリシタン大名高山右近が加賀に落ち延びるまで

 高山右近(1552-1615)は1564年に、父・飛騨守(友照)とともに、イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラから洗礼を受けて、入信する。ヴィレラは、ザビエルの来日布教(1549年)後の、第2陣の宣教師である。

 1568年高山父子は、足利義昭を擁立して、入京した織田信長に下り、武将・荒木村重の配下に入る。73年に家督を父・飛騨守から譲られ、高槻城主(大阪府)となっている。
1576年には、京都(四条蛸薬師通り)に南蛮寺を建立し、父子が揃(そろ)って、落成式に参加している。


京都・南蛮寺跡(三階建てで、本能寺から150mほど離れたところにあった)

 高槻領内では、家臣や領民をキリスト教に改宗させている。強制的な改宗も行われ、高槻の仏教寺院は破壊された。イエズス会の『1579年日本年報』(ローマに送る年次報告書)には、高槻の領内に八千人のキリシタン信者がいた、と記されている。が、さらにその2年後の、81年には、高槻の二万五千人の人口のうち、一万八千人が信者だった、ともいわれている。

 1579年の荒木村重の謀反では、荒木と連携して、信長に抗した。だが、信長が宣教師オルガンチーノを高槻城に送り、右近が恭順しなければ、京都の宣教師は皆殺しにされる、と説得させた。右近は、高槻城を開城し、信長に下った。その後、再び高槻領の城主になる。
 
 一方、父・高山飛騨守は荒木の本城・伊丹城摂津国 兵庫県)に逃げた。伊丹城が信長の大軍に攻め落とされた後、飛騨守は信長の重臣柴田勝家を頼って、北の庄(越前国 福井市)に逃れている。そして、越前国で布教を続けた。一向宗の拠点でもある越前国に、キリスト教が入っている。柴田勝家と妻・お市の方(信長の妹)、それから、お市の方の前の夫・浅井長政の娘の三姉妹・茶々(のちの淀君)、お初、お江(のちの徳川秀忠正室)の一家が、飛騨守の影響でキリシタンになっていた可能性もある。

 1583年に、秀吉に北の庄城を攻められた、柴田勝家お市の方は自害するが、そのあとも越前国にも、隠れキリシタンは少なからずいたようである。


金沢カトリック教会前に立つ高山右近像(1588年秋から、26年以上、能登と加賀で布教活動を行った)

 高山右近は、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後の、山崎の戦い京都府 6月13日)で、秀吉に味方して、決定的な役割を果たした。これは本書で詳しく論じましたが、ルイス・フロイスが、「右近はわずか一千の兵で、明智光秀の軍一万を破った」と記している。(1583年イエズス会総長宛書翰『信長の死について』より)

 山崎の戦いで勝利を収めた秀吉が、柴田勝家ら信長の重臣たちを圧倒して、次の天下人になっていきますが、秀吉は右近を用いつつも、警戒するという姿勢でした。1614年に右近を国外追放した徳川家康は、右近を徹底的に嫌いました。
 
 家康は常々、「右近麾下(きか)千人は他の何人(なんびと)の部下の一万人にも優る」と言っていた。これは、山崎の戦いでの右近の働きを指している、と考えれば納得がいく。
秀吉本隊が、「中国大返し」で200㎞余りを走ってきて、疲労困ぱいで戦場にたどり着いたときには、光秀軍は敗北寸前だった。先鋒隊の右近隊一千が、光秀本隊に勝利を収めつつあった。秀吉本隊は、総崩れとなり、逃げる光秀軍を追撃して、光秀軍の首を取るだけでよかっただろう。
 山崎の北にある勝竜寺城を包囲すると、光秀はさらに逃げようとして、京都の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りにあって死んだことになっている。が、本当は、光秀は家康の忍者部隊・水野忠重に保護された(副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』)。
 そして、天海となった光秀は、家康に、イエズス会が背後にいる高山右近の恐ろしさを教えたのだろう。
 
 秀吉は、右近の山崎の戦いの功績に報いて、高槻領に隣接する能勢郡大阪府北部)を与えた。ここは一帯が、多田銀山と総称される銀の産出地だった。大阪夏の陣のときに、豊臣方の真田幸村が、ここに大阪城埋蔵金を隠した、という伝説がある。
 ところがその三年後(1585年)には、明石に改易(国替え)になっている。秀吉は京都、大阪の真ん中にキリシタンがぞろぞろいることを望まなかった。領民と領主がキリスト教で一丸となることを、秀吉は恐れていた。また、この年、右近は、黒田官兵衛(如水、孝高)ら秀吉配下の武将に、洗礼を与えた。蒲生氏郷(がもう・うじさと)もこの時受洗した、とされている。
が、彼らはその前から、ずっとキリシタンだっただろう、というのが、筆者・田中の考えだ。この頃に秀吉の家来たちが、公然と、キリシタンとして動き出した、ということだろう。
  
 20年後のことですが、右近は、京都の伏見屋敷でも布教している(1604-1614)。「右近の屋敷は、そのまま教会であった」、と伏見屋敷跡の説明に書かれている。伏見の町の中心部です。現在、酒造会社の「月桂冠」がこの跡地を整備しています。


(筆者撮影)

 右近は、改易後、明石の城と港を整備して、ここにガスパル・コエリュ、ルイス・フロイスらが長崎から寄港すると、彼らと、総勢三十名で大阪城に向かい、秀吉と歴史的会見をする(1586年5月4日)。しかし、ここでのコエリュ(イエズス会日本準管区長)とフロイスの傲慢な発言が、秀吉に、イエズス会に対する警戒の念を抱かせることになった。加賀の前田利家も、この時秀吉と同席して、不快になった。右近もあわてて発言を制止しようとしたが、この時、イエズス会の日本侵略の謀略が、ばれてしまった。そして、翌年の87年(天正15)7月、青天の霹靂(へきれき)のように、バテレン追放令が出される。しかし、右近だけは、この日が来ることを予感していた、という(渡辺京二著『バテレンの世紀』より)。

 小西行長黒田官兵衛が表向きの棄教をして、秀吉の勘気を和らげたが、右近は棄教を拒み、秀吉の家臣を追放される。そのあと、小西行長の領地の、瀬戸内海の小豆島(香川県)に潜伏していたが、それが秀吉にばれて、そこを離れ、長崎でコエリュに会っている。そして、前田利家が、秀吉の怒りが和らいだ頃合いを見計らって、とりなした。右近は、秀吉の許しを得て、加賀の前田利家のもとへ頼っていった(1588年9月)。千利休蒲生氏郷に、手紙でそのように伝えている。「利休十字軍」の情報網だ。右近は、以後1614年まで、26年間も、加賀で布教活動をした。

●『右近が建てた金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である』

 加賀の前田利家についてであるが、金沢を本拠地にするのは、賤ヶ岳の戦いの後である。それまでは、本能寺の変以後、利家は、能登国の七尾城に拠っていた。金沢は信長の家臣・佐久間盛政が入っていた。金沢の街割りも、佐久間盛政が最初に行っている。金沢城はもともと、浄土真宗の道場の金沢御坊があった。それが、叩き壊されて、城下町に変わった。大阪城が、石山本願寺の跡地に建てられたのと同じだ。佐久間時代の街割りを、ほぼ当時のまま残している、と言われるのが、金沢の香林坊(こうりんぼう)の近くの長町(ながまち)武家屋敷の辺りだ。佐久間盛政は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家側について奮戦するも、捕らえられて処刑される。「死んでも、秀吉の配下になりたくない。」という猛将だった。以後、利家が金沢を拠点として、佐々成政(さっさなりまさ)を末森城に破って、加賀国を支配することになった。


前田利家
   
 右近は、利家に匿われ、1万5千石の禄(ろく)をもらった。能登の七尾の本行寺にいて、ここで利家と正室・まつたちをキリシタンに変えていった。ここでイエズス会宣教師が、当時の西洋学問も教えた。ここで学んだ一人が辰巳用水を開いた、板屋兵四郎である。日蓮宗の本行寺の茶室で、ミサを行っていた。

 右近は、金沢城天主閣の修築も、手掛けたと言われている。この時天主閣は、京都に建てた南蛮寺を模して作られた。

金沢城 菱櫓と京都南蛮寺が酷似していることについての記事⬇
https://go-centraljapan.jp/route/samurai/spots/detail.html?id=140


金沢城 菱櫓の木組み 実物の10分の1の模型と菱櫓((菱櫓内にて筆者撮影)

 金沢の年配の観光ボランティアから聞いた話であるけれども、京都の南蛮寺と、金沢城天主閣(1602年の火災で焼失)を再現したもの、といわれる菱櫓(ひしやぐら)には、大きな共通点がみられる。菱櫓の四隅が黒塗りだが、それは柱を入れた上から、黒漆塗りの鉄板で覆っている点である、とのことである。金沢城・天主閣で右近はミサなども行っていたはずだ。
どうも、高山右近が天才建築家であったことは疑い得ないようである。これは、イエズス会宣教師たちから、非常に高度な工学を教わっていたためであろう。

 七尾だけでなく、金沢城下にも、高山右近は屋敷を構えた、とされている(1599年以降とされている)。兼六園の入口の紺屋坂下に、金沢教会(南蛮寺)があった。
 
 右近の生存中に、加賀前田藩の有力藩士はみな、キリシタンになっていった。ミサを執り行うたびに百名の藩士たちを一晩で受洗させていた、という。しかし、領民たちはほとんど、右近のミサに参加しなかった。武士たちが密かにデウスを信仰した。

 また加賀藩は、真宗王国の加賀・能登一向宗徒を弾圧した。キリシタン一向宗信徒が階級で真っ二つに分かれていた。
 
 バテレン追放令を出した羽柴秀吉だが、「農民、町人など下々(しもじも)の者が、キリシタンを信じるのは、勝手にせよ。だが、大名、武士たちがキリシタンになることは、許さない。」と考えていた。しかし、徹底できなかった。秀吉の中途半端なキリスト教禁教政策の裏には、一向一揆に対する恐れがあった。それが仇となり、加賀前田藩は、秀吉が恐れていた通りの布教状況になっていった。

 右近国外追放の翌年の、1615年のイエズス会年報には、「金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である」と記されている。金沢は、1587年のバテレン追放令以後、キリスト教布教の中心であった。
 
 イエズス会の指令を受けたキリシタン大名たちが、繰り返し秀吉暗殺計画を行っていたことは、本書『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』第二部で論じました。これまでの利家像は,秀吉政権を裏で支えるナンバー2、というのが、一般的でした。秀吉と利家の関係は、たとえるなら、中国共産党毛沢東と彼に忠実な、周恩来の関係のように思われてきた。

 しかし、それはキリシタン大名という存在を全く捨象して、築かれてきた戦国日本史の中の利家像である。秀吉の身内や側近たちはキリシタンだらけだった。

 その中心人物が千利休高山右近小西行長蒲生氏郷である。この4人はイエズス会から直接指令を受けていた。利家が右近を庇護したことにより、利家と秀吉は、「懐に刀を隠した友情」の関係になっていく。副島先生いわく、「秀吉が利家を殺そうとして、家康がかばったこともあった」そうである。

 利休は何度も秀吉暗殺を企てているが、その度に失敗して、最後は処刑された(1591年3月17日)。右近は、直後、再来日した宣教師ヴァリリャーニに会うために大坂に出向いた。
イエズス会の方針は、「秀吉を謀殺せよ、そして小西行長日本国王にする。」というものだった。この指令は右近を通じて、加賀の前田利家にも伝えられた。

 その後は、骨肉相食む(こつにくあいはむ)の恐ろしい殺し合いでした。そして、秀吉はキリシタンの前に、敗北した、本書で筆者は結論づけました。

 利家もまつも、秀吉の正室・北の政所も、側室の淀君もみんなキリシタンでは、秀吉もお手上げです。

 秀吉の死(1598年9月18日)後、五大老前田利家も、1599年4月27日に死ぬ。利家は、二代目藩主・利長に、右近の忠誠をたたえ、大事にするように、と遺訓を与えた。家臣の扱いについて、触れたくだりで、右近は二番目に名前が挙がっている。嫡子・利長は、利家に輪をかけて熱心な隠れキリシタン大名だった。だから、家康は利長を憎悪した。
藩主の名代(みょうだい)として、高山右近と横山長知(ながちか 加賀の有力藩士)が、大坂城の家康の元へ弁明に向かった。

 だが、家康はふたりに面会もしなかった。キリシタンを極度に警戒していたためである。
 家康はそれでも、キリシタンに寛容であるか、禁教の立場なのかあいまいにして、関ヶ原の戦いを迎える。前田家は徳川方につく。
 
 右近は加賀へ戻ると、すぐに加賀藩の防衛強化を急いでいる。わずか27日間で、金沢城の城下に内惣構、(および外惣構)(うちそうがまえ)をつくり、城下一帯が攻撃に耐えられるように工事した。関ヶ原の戦いの後の徳川との戦に備え動いていたのである。右近の凄まじい工事のスピードに驚かなかった者は、一人もいなかった、という。

イエズス会の日本のエージェント高山右近と、三人目の天下人・徳川家康の暗闘が、関ヶ原の裏で、始まっていたのであった。

(参考:『ユスト高山右近 光は今も 』木佐 邦子
    『福者ユスト高山右近金沢市内の足跡を訪ねて』 監修 木佐 邦子
カトリック金沢教会 発行より)

新刊 『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』のご支援をどうぞよろしく。

田中進二郎拝
戦国大名はほとんどがキリシタンであった。この事実の重さを改めて知ることになる
投稿者:六城雅敦
投稿日:2020-09-29 09:02:30


秀吉はキリシタン大名に毒殺された


9月26日に発売された田中進二郎著「秀吉はキリシタン大名に毒殺された」(電波社)を読了した。

本書は田中進二郎氏がずっと追いかけていたキリシタン大名の系統の集大成である。

同盟と裏切りが横行した戦国史の謎が、田中進二郎氏が示すように高山右近蒲生氏郷という二人のキーマン、そして千利休を中心とする「日本十字軍」の暗闘という視点を加えると、カチッカチとパズルのピースがはまってゆく快感を覚えるだろう。

茶の湯が戦国武将に愛されたのは、茶の湯イエズス会のミサという面があったからだ。
すなわち利休を日本での司祭(bishop)代理に見立てて、イエズス会の背後に控える覇権国スペインの恩寵を我先にと少しでも得たいからだ。

千利休が扱う茶器は、そのままスペイン国公認の神器であったのだろう。
剣、勾玉、鏡が天皇即位に必要なように、利休が認めた茶入れこそがキリシタン大名の誉れであり、イエズス会を通してスペインと結びつく証明のようなものだったのだ。キリシタン大名のこの弱みをうまく利用したのが信長であり、秀吉の茶の湯御政道の本質だ。

加賀前田家は現在、古九谷焼とよばれる磁器を製作していたが、これはもともと前田利家キリシタンのミサ(礼拝)での必要にかられて城下で作らせたそうだ。
たしかに、そう考えれば古九谷を焼いたとする窯(かま)は徹底して破壊されて現存しない理由に合点する。

本書で暴露されているが、秀吉が伴天連追放令(1587)の3ヶ月後に北野天満宮で「北野大茶会」を開催した。
千利休今井宗久(そうきゅう)・津田宗汲(そうぎゅう)の三大茶人が目の前で茶を点てて振る舞う一大イベントを、秀吉は城下庶民にまで開放した。
10日にもわたる大茶会とうたった割には、参加は1000人程度で閑散とし、たった一日で終わってしまった。
武将たちの”宗教ごっこ”に脳天気にノコノコ出ていって、キリシタンの嫌疑を掛けられるのなんかまっぴら御免と誰もが思ったのだろう。

利休を通して暗にイエズス会の権威を利用した秀吉も最後には斬り捨てられ、豊臣家の命運は潰(つい)えた。

■つぎつぎと氷解する戦国武将たちの疑問

まず、冒頭に多くの方はあの島津家の家紋(丸に十字)は、本来は縦棒が長い十字架であったという副島隆彦先生の指摘に、まさかそんなことがと驚くのではないだろうか。

しかし幕末の偉人西郷隆盛がよく揮毫したという『敬天愛人』はキリスト教の教義であるという指摘がある。隆盛も島津藩においてキリスト教の影響を強く深く多く受けた人物なのだ。

また日本一美しい城郭といわれる姫路城(白鷺城)にも、譜代藩であるに関わらず実は十字架が掲げられている。
パンフレットにもしっかりと明記されているが、理由は謎とされている。


写真 二の門に掲げられる丸に十字

キリスト勢力は権力者から弾圧された側という解釈ばかりが歴史教科書には示されているが、それでは、なぜ徳川の血統である結城氏と松平氏が交互に藩主を務めた姫路城に十字架が掲げられて現存しているのかがわかるはずがない。

わたし(六城)の出身地でもある堺は南蛮貿易の拠点として繁栄し、千利休を生み出したところであるにも関わらず、いまでは大阪湾に面した工場と密集した住宅が混在するだけの地域にすぎない。歴史を感じさせるような街並はほとんど消えている。

日本のベニスとまでポルトガル商人に讃えられた面影などどこにもない。日本で最初に鉄砲までも造った打刃物産業が伝統工芸として残っているだけだ。
せいぜい百舌鳥古市古墳群仁徳天皇陵や応仁天皇陵)が世界遺産登録されたことが最近の唯一明るいニュースではある。

このような個人的な疑問にも本書を読めば氷解する。

江戸時代に幕府直轄領となってからは、堺は外国と直接通じる貿易港の役目を剥奪され、イエズス会(耶蘇教)の要注意監視区域だったのだろう。

だからイエズス会や布教の面影を残すものは全部破却されたのだろう。千利休を始めとする堺の豪商(会合衆:豪商の連合)の史蹟もない。

日比谷了慶の屋敷跡は公園となり、寄付で石碑が建てられているだけだ。


(写真:堺市戎公園 通称ザビエル公園)

本書で南蛮貿易の貿易事務所として登場する南宗寺は千利休(1522-1591)と三好長慶(1522-1564)の墓がある。

現在放映されているNHK大河ドラマ麒麟が来る」で三好長慶も登場している。
畿内の支配者の三好長慶細川晴元ともに京に攻め入り国内で初めて火縄銃を使ったとされる。(1550)
信長よりも先に火力兵器を手中にしたことで、現在の大阪地域で勢力を固めたのが三好長慶だ。
だが、南蛮貿易で火薬原料と鉛を独占していた三好長慶は家宰の松永久秀によって毒殺されたのが、長慶の死の真相なのだ。
松永久秀は、三好長慶を殺したあと、三好三人衆を動かして、畿内をしばらく牛耳っていた。その間、畿内キリシタン大名たちは、戦々恐々としており、彼らに代わる新しい庇護者を必要としていた。だから、信長の台頭を歓迎したのだとわかる。

イエズス会の強力な庇護者であった三好長慶は、イエズス会禅宗に擬装した南宗寺で長慶を弔らわれたのだろう。

そしてこの南宗寺は大阪夏の陣で死んだとされる徳川家康の墓があることで有名だ。
ただしこれは松下幸之助が再建したもので、当時のものではないが戦災で焼ける前は東照宮の廟があったそうだ。

いままでは訪れても「家康の墓?馬鹿らしい」と一笑一蹴していたが、この南宗寺は水戸徳川家の庇護下の由緒ある古刹である。(だから瓦は三ッ葵の紋だ)
南宗寺には、三代将軍家光も参拝したという言い伝えも残っているらしい。

本書で水戸徳川家キリシタン大名の有力な一派であることを知ると、俄然イエズス会の勢力は徳川幕府下においても温存されていたことがわかる。

もしも徳川幕府イエズス会勢力(スペイン勢)により倒幕された際には、家康はすでに大阪で死んでいることを水戸徳川が発表して、水戸藩主こそ真の大権現様であるぞとキリシタン大名と共に公布しようとしたのではないだろうか。

そうすると、イエズス会の寺に家康の墓があるのかということの説明がつく。

キリシタン大名の中心であった蒲生氏郷

自著「かくされた十字架 江戸の数学者たち」(2019 秀和システム)において江戸時代初期にキリシタン弾圧を指揮した張本人の井上政重(1585-1661)の出自におおいて、駿河で生まれ、徳川家臣の大須賀家(キリシタン)に使えていた。その後二代将軍秀忠に仕える前は、福島二本松の蒲生(がもう)家に出向していることが判明していることを記した。井上政重は徳川の伊賀忍者系の出身だ。

徳川家のお膝元である駿河遠州)から遠く離れた蒲生家になぜ出向いたのか。

田中進二郎氏によると、蒲生家とは信長政権からずっと一貫してキリシタン大名であり、反信長、反秀吉の中心大名であるのだ。
秀吉によって高山右近が国外追放された後も、蒲生氏郷の家系はイエズス会のエージェント(agent)として暗躍していたのだ。

だからこそ徳川家もキリシタン大名ネットワークの連絡係としても井上政重キリシタン大名の統制を担う蒲生家に公儀隠密(スパイ)として派遣したということ。

やがて井上政重キリシタン弾圧とは真逆に密入国したイタリア人宣教師ジョセッペ・キアラを江戸の小石川に匿った。そこで西洋数学(天文学)を同じ駿河出身の関孝和に学ばせた。

本書とはちょっとずれるが、井上政重の系統に江戸後期の数学者で高橋至時(たかはしよしとき 1764-1804)という人物がいる。
弟子が日本地図を作り上げた伊能忠敬(1745-1818)である。

高橋至時は見廻り組の小役人が表向きの身分で、井上家に所属している。忍者の家系は江戸城の警備を担当だ。
この人物が江戸幕府の頭脳集団となり、浅草天文台(幕府の数学研究所1782年)を設立した。やがて蕃書調所(ばんしょしらべしょ:幕府の海外研究機関)となった。

世界に対峙できる頭脳がなぜ禁教下の江戸時代に集められたのか不思議に思わないだろうか。
黒船来航(1853)の百年前にはすでに海外情勢と西洋科学(Science)をキリシタン大名が密かに研究していたのだ。
代表例として挙げると岡山の津山藩だ。天才・秀才の家系として知られる箕作(みつくり)家だろう。(維新後は華族となった)

だからこそキリシタン大名ネットワークで速やかに人材を一箇所に集めることが可能だった。

■海外情勢はそのまま国内勢力に大きく影響した

日本の戦国時代と同時期のヨーロッパでは凄惨なカトリックと新興のプロテスタントの勢力抗争が行われていた。
イギリスにおけるスペイン勢力(カトリック)とオランダ勢力(プロテスタント)イギリスを経てアメリカ建国(独立)へとつながっていく過程は、副島隆彦先生の「本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史」(2020 秀和システム)に詳しくわかりやすく書かれている。

本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史 フリーメイソン=ユニテリアンは悪魔ではなく正義の秘密結社だった!

さて、その影響(イエズス会の勢力低下)は日本にもどのように影響したのか、が本書の後半の主題である。

イエズス会配下の大名たちをアメとムチでなんとか懐柔してきた秀吉政権も、身内までもがキリシタンに侵蝕されて瓦解していったことがつぶさにわかるだろう。

秀吉恩顧のキリシタン大名たちを関ヶ原で家康側に寝返らせたのは、反イエズスであった権力者石田三成への憎悪である。
本能寺の変から続く反勢力・イエズス会ネットワークは関ヶ原の戦いで決定的に豊臣家を孤立させ家康有利に働いた。

大阪夏の陣(1614)、大阪冬の陣(1614~15)で豊臣家滅亡させた家康の原動力は、プロテスタント国家のオランダとイギリスの支援によるものだった。

家康がイエズス会からプロテスタント勢力に鞍替えした理由、それはヨーロッパでも明白な差となっていたプロテスタント側の科学であり、兵器や築城や治水(開拓)といった先進の工学であった。

覇権国がスペインからイギリスへ動くという海外情勢の大きな変動がそのまますぐに日本にも波及していた。

キリシタン大名たちを操ったイエズス会(=スペイン)とオランダのプロテスタント(=ユダヤ人勢力)の暗闘が日本中世史の真の姿であったことが、本書によってはっきりと解るのである。